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問題は、なに? ニュース記事に関連したブログ

2012/05/17 07:27

 

入れ墨とかタトゥーをしている人が100人を超えることには驚いたけれど、韓国に旅行したとき、眉を美しく見せるために行った旅行仲間がいたよ。

それは数年後には消えてしまうと言われていたけれど・・・

1人は、公務員で、1人は、現在人権擁護員をしている。

 

彼女たちがやり直していなければ、すでに消えているけれど・・・

 

また、背中一面に刺青をしている友だちもいる。

「これがあるから水泳がしたいけれど、プールにも入れないし・・・ 銭湯にもダメなところがある。」と言っていた。」

 

これが始まった一番の問題は、入れ墨(刺青)やタトゥーがあるかどうかではなくて、人を不快にするかどうかではないのだろうか?

 

友だちは、刺青がなくても、十分威嚇出来るような様相だけれど、誰にも威嚇をしている訳ではない。 私からすれば、飼い猫や飼い犬のようなものだ。 知り合ったときから、ホームレスをしている。

彼なりにきちんと働こうと思っているが、建築工事現場の日雇い労働者の労働条件が悪くて、・・・

グループを作って働き始めて、順調だと思ったら仲間が大怪我をした。 2人が怪我をしたら、その怪我の保証はしてもらえなく、反対に、問題のない人たちまで辞めなければならないようになってしまったのだ。

彼らは路頭に迷うしかなくなった。

 

そのような意味合いから見たなら、可愛くやさしそうな顔をして、弁護士資格まであって・・・  という橋下市長の方が、人を不快にしていると思う。

私には、現在の彼は猛獣に見える。 

 

入れ墨検査はやりすぎ?  2012/05/16 1051 を見てコメントを書こうと思って書き始めたが、このようにしたことを付け加えたい。

 

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関連ニュース

これがわたしである

2012/05/16 02:36

 

 

現在、“神との対話” という本を読み進めていることは、 私は神と対等の存在 2012/05/06 2344 にも書いているが、126ページまでを読み終えた。

自分が強く感じた事柄をすべて、ここに取り上げて書いているのではなく・・・  書きたいと思うことは、毎ページにあるのだけれど、それを実行したなら、私は本を読み進められなくなる。

実は、この本を紹介してくれた神さまの存在を信じている友人に、感じたことをメモして、出逢ったときに渡す予定で読み始めた。 

だが、それを始めたら、本が読み進められなくなってしまった。 だから、彼に読み終えてから全体の感想を伝えるようにすることにしたいと伝えた。

 

もうみんな、そうしているんだよ。 … 意識的に実行している者もあるし、自分が何をしているのか知らずに無意識に行っている者もいる。  ・・・ 

ほかのひとに、「これがわたしである」と宣言しなさい。 「これがわたしである」というのは、宇宙で最も力強い宣言だ。 あなたが何を考え、何を語るにしても、「これがわたしである」という言葉をきっかけにものごとが動き、体験できるようになる。

宇宙が動く仕組みはそれだけだ。 ほかに道はない。 宇宙は「これがわたしである」という言葉に応える。 瓶から現れる魔法使いが指示に従うように。

 

「これがわたしである」と宣言しなさい。” で分かりやすく宣言したのがおネエキャラ」で活動しているクリス松村さんやはるな愛さんである。 ふたりがもっとも重要なことが性に関することだったのだと思う。 

 

自分が何をしているのか知らずに無意識に行っている者もいる。” の例を挙げると、1995年8月29日の信濃毎日新聞の “ぼくと私の20年後” に載っている隣村6年生の小林珠江さんの文章。

 

 作る服流行のデザイナーに

私の20年後は、デザイナーだろう。7年間みっちり勉強して、パリにも行く。私の作りだす副などは、みんな流行するのだ。

“プロ” といわれるほどだから。 この頭で考える服は、皆輝いている感じ。 小学校や中学校の同級会でも、友達を忘れている場合があるが、私だけは、だれも忘れてはいない。 ゆうまいなのだから。 テレビなどにも出る。有名な人たちの結婚式の服なども、私の作ったウエディングドレスを作ったりもする。

そんな有名なデザイナーになるのが、私の20年後なのだろう。

 

17年前に、これを読んで驚いた。 こんなにもはっきりと、自分の夢を書くなんて・・・  もしも、叶えられなかったらどうするのだろう? 

この頃の私は、自分の夢を何も実現させることが出来ない状態だった。 自分の中では、最低の時期だったとも言える頃だった。

自分が、ダメな人間だと思っていた。 だから、“この子の20年後に、望みが叶えられていなかったら、あざ笑ってやろう。” 的な感情があって、この部分を切り取って保管した。 

でも、数年前に捨ててしまったような気もしながら、探してみた。 変色した小さな紙片が引き出しの奥にあった。

 

17年前、この子もこの子の担任も新聞社の人も私も・・・  “自分が何をしているのか知らずに無意識に行っている者もいる。” の無意識だったのではないかと思う。 その時に考えたことを実行したに過ぎない。 

自分の夢を書いて・・・  今を精一杯に生きていただけかもしれない。 

私は小学生の時の夢を、この時点では叶えていなかったけれど、その後叶えることが出来た。 その後の夢もひとつひとつ叶えている。 

夢は、期日以内に叶えるものと、生きているうちに叶えれば良いものがあって・・・  さらに、イメージを少し変えて叶える場合がある。

私の小学生の時の夢は、学校の先生になることもあった。 これは学校職員として10年働いたことで叶えられたと思う。 教師になることは出来なかったけれど、・・・

 

だから、この子の夢も、・・・ 20年後となっているけれど・・・  すでに叶えているのかもしれないし・・・ 

私がその方面に関心がないから知らないだけかもしれない。 

人の夢は、変化もして行く。 ある時期、デザイナーにはまったく興味がなくなっている場合もある。 全く別のことで有名になっているかもしれないし・・・ 

この子は夢を叶えることが出来なくて・・・ 自分の子どもに夢を託す場合もある。

そのようなことを、私たちは無意識に行って来たのではないかと思う。

 

私は2005年2月2日から、今まで無意識で行ってきたことを、意識して行うようにして来た。 

私が意識して行うことは、コミュニティー ・ワーカとして活動すること。 

“みなさんのお手本となるような生き方をすること。” である。 

私は神と対等の存在 の中でも書いていることを、言葉を変えて書くと、“どこにでもいる普通の人間だけれど、意識的に行動しているから、私は神と対等の存在だと言える。” のだ。

 

人は、完璧ではない。 

馬や鹿などの動物たちは、生まれるとすぐに立って、自分で母乳を探して飲む。 だが、人間は、自分では何も出来ない状態で生まれる。

この違いによって、人は無限の可能性を持っていると言われている。

どのように変化して行くのか分からない可能性をたくさん秘めているのだ。

 

悪いことを意識すると、悪い方向へと進むようになる。 だが、良くなることを意識して考えると、良い方向に進む。

これはスポーツ選手などが、行っているイメージトレーニングからも言えることだ。

 

現在の社会が、不安定なのは、多くの人々が不安に怯えているからだ。

だが、人々は強い。 今までも多くの困難に打ち勝ってきた。 

戦後の・・・  すべての戦争の・・・  大昔から行われてきたすべての戦争の悲しみの中から立ち上がって力強く生き抜いてきた。 

多くの自然災害や公害にも、負けることなく、生き抜いてきた。

 

これがわたしたちである。

 

17年前の私がイメージしていた神さまのように、私たちが完璧な人間だったなら、決められた枠の中に収まってしまう。

時にはミスをしたり・・・ 色々な変化も生みだしているから、無限に広がる可能性を秘めている。

 

完璧でない人間だから、素晴らしいのだ。 

完璧でないことに、一つひとつ感謝したなら、私たちの不安は消えてゆく。 心の平安が生まれ、喜びが多くなってゆく。

 

 

 

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お姉ちゃんになったらね

2012/05/15 08:21

 

いおたんの父親からのクリスマスプレゼントは、パソコン型のおもちゃ。 

居間のお掃除を始めて、外に埃を掃き出そうとするといおたんがその中間に居座って、パソコン型のおもちゃで遊び始めた。

ひと言ことわって、少し場所を動かした。 すると、そこでは嫌だと大泣きをした。 寒いから陽のあたるところにいたいのだと言う。

お掃除が出来なくなってしまうので、怒っておもちゃのスイッチを切ろうとした。

“きる” と書いてあるボタンを押したが切れない。 何度か押しても切れないので、蓋を閉じた。 

そして、掃除の続きを始めた。

こたつから布団を取ると、温かかったので、布団をいおたんの上に掛けた。 温かいのでいおたんは喜んで、泣きやんだ。

 

掃除が順調に出来て・・・ 終り頃になると、いおたんがパソコン型のおもちゃをいじり始めて、音楽が鳴って・・・  その後、“きる” を長く押し続けて、電源を切った。

「ばあちゃん、長く押して切るんだよ。」と、教えてくれた。

「いおたんのを見ていたから分かったよ。」と言うと、いおたんは「(ばあちゃんも)お姉ちゃんになったら出来るようになるよ。 だから、頑張ろうね」と、いつも自分が言われている内容を口にしていた。

 

心の中で、「ばあちゃんは、お姉ちゃんを卒業して、お母さんになって、その後、おばあちゃんになっているんだよ。」と言って・・・ 

いおたんには、「お姉ちゃんになると出来るの?」と尋ねるように言った。

「うん、そうだよ。」と得意げだ。

 

自分の子どもたちのこの年齢の頃は、こんなにも話が出来なかったし、子どもだけで遊ぶことがいおたんより多かったので、言葉と知っていることのアンバランスを感じることがなかったけれど・・・  

3歳児の、このアンバランスがおもしろく楽しい。

 

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受容と依存

2012/05/14 09:03

 

自分の生き方を示す  “受容”  2012/04/29 0023  依存症  2012/05/10 1150 を書いたが、“クレオパトラな女たちの肉声 美容手術の「失敗」は少なくない  2012/05/12 1636 ” の記事から、自分の容姿を受容出来ていない人たちがたくさんいることを気付かされる。

もっとも、“クレオパトラな女たち” は、いつも見ている番組だ。  

そのように考えると、以前、“ビューティー・コロシアム” という番組があった。 あの番組によって美しくなった人は、その後も美しくしているのだろうか?  

もしも、私があの番組のように、スタッフたちの協力によって美しく変身したとしても、その後、その美しい姿を維持することは出来ないだろうと思った。  

また、“自分は美しくない。” と思って出演していた人でも、自分が思うほどの醜い顔の人はいないと思った。

ただ、この番組によって、顎などに障害があることが発覚して治療が出来た人がいたことは喜ばしいと思った。

また、思い掛けないところにも障害があることを知った。

 

思い掛けないところにも障害があることを知ったのは、私自身の心の問題にもあったのだ。 

アスペルガー症候群という障害。

でも、障害は、ある意味、普通の人にはない利点でもある。

 

彼は、今どうしているだろう。

私の母校(高校)の後輩、井出今日我君。

彼は進行性筋ジストロフィーという難病の持ち主。 徐々に体の筋肉が衰え、歩行が出来なくなったり ・手の力がなくなったり ・口の筋肉が衰えうまく話す事が出来なくなったり ・呼吸の筋肉 ・心臓の筋肉までもが衰えてしまう。 また、自分の意志とは関係なく、ドンドンと進行していく病気。
5年ほど前の高校生の時には、すでに車いすでの生活になっていたのだけれど、スイスのブライトホルンに登頂したのだ。

彼のブログを見ると、2008年以降の書き込みがしてない。

これがどのようなことを意味しているのか? その真実を知る方法が私にはあるのだけれど、知る必要がないと思っているから、調べない。

 

彼はブライトホルン登頂前に、

健常者には当たり前に出来ることが障害者には出来ないことがたくさん有ります。 一言で「障害者」といっても、一人ひとり「出来ること、出来ないこと」がみんな違います。 そのことが理解されないことで誤解や不和が生まれやすいなあと思います。

そしてさらにそこから生まれた誤解が、障害者と健常者の間の対等な人間としての関係までも壊してしまうことがあると思うのです。

「その位自分で出来るだろ・・・」とか「こんなに手伝ってあげているのに・・」いう健常者と、色々手伝ってもらっている中で障害者の「出来ないからお願いしているのに・・・」とか「我慢しているのに・・・」というお互いの理解のなさから生まれた対立が起きた時、「もう、お前の事なんかしらない!」「だったら良いよ!」って喧嘩したとします。 健常者は、それでも明日から変わりなく生活を送ることができます。

しかし、障害者はそのままでは生活できなくなってしまうのです。 手伝ってもらわなければ生活できなくなってしまう障害者は、納得行かなくても謝ったりしなければならなくなります。 こうなると、人としての心の通い合いがなくなってしまい、そこに両者を離してしまう部分が生まれてくると思うのです。

でも、僕はこの両者を離している部分を「決してつき破ることが出来ない壁」だとは思いません。 それは、お互いを理解し、熱い心を持っていればこれから開いていくことが出来る「未開の部分」だと考えているんです。

とブログに綴った。

高校生の彼は、授業のための教室移動には車いすを使っていた。 エレベータのない学校なので、階段がある場合は、クラスメイトが自分と車いすを運んでの移動である。 毎日何回かそれをクラスメイトが行ってくれる。

「ありがとう。」を言わなければ、それが当然のように思われるとか、威張っているように思われるが、毎回言うことにも抵抗を感じてしまう。 そんな思春期の想いを講演で聴いた。

 

彼は5歳で発病をして、普通の子どもたちは徐々に出来ることが増えていくのだけれど、彼ら進行性筋ジストロフィーという難病を抱えている人たちは、徐々に出来ないことが増えてゆく。

それを受容することは、かなり難しいことだと思う。

受容できないのは、彼ら本人だけではない。 家族も社会も・・・

 

彼らは依存して・・ 多くの人に色々なことを依存して、生きることを許される。

でも、健常者だって、本当は同じなんだ。

誰もが同じなんだ。

色々な変化を受容できなくて、本当の姿を受容できなくて・・・  何かが少し簡単に出来ると、本来持っている以上の能力をイメージしてしまう。 

過大評価をしたり、過小評価をしてしまう。 

自分自身の本当の姿を、自分自身が知らない。

 

私たちは、超能力という言葉を知っているけれど、それは童話や昔話の魔法のように使えるものだと思い込んでいる。 

普通に出来ることが、普通に出来ないこと、普通よりも簡単に出来ること、そのようなイメージしている通りに行かないことが、本当は超能力の一部ではないかと思う。

だから、私たちは誰もが超能力を持っているのだけれど、例えば、イチローが素晴らしい野球の選手であるように、・・・  

彼は、その技術を磨き続けたから、それを誰もが認めるようになった。

彼は自分自身の夢と・・・  彼と話をした訳ではないから、真実は知らないが、自分自身のすべてを受容したから、素晴らしい選手になったのだ。

彼にだって、私たちのような・・・  いや、今日我君の階段を車いすと共に運んでもらうような・・・ それに似た出来事はあったはずである。 

その出来事を誰もがあまり意識しないで、通り過ぎたのだと思う。

今日我君たち障害者は、必要以上に意識してしまうだけで・・・   その必要以上に意識してしまうことが超能力の一部ではないかと思う。 

 

自分のすべてを受容したなら、人がどのような時に依存をしたいのが解ったり、どのくらい支え合うことが良いのかを理解することが出来る。

そのバランスがうまく出来たとき、私たちは、超能力を発揮するのではないだろうか?

大会を目指すチームたちの中に、一人ひとりの能力は低いけれど、一人ひとりの能力が高い人たち以上の成果を出して優勝する場合がある。

受容と依存のバランスがもっとも良い状態だった成果だと思う。

 

これは “天国と地獄の箸” という話で伝えようとしていることでもあると思う。

 

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母の日

2012/05/13 23:53

 

夕方のテレビで、今日が母の日であることを知った。

「私にとっては、毎日が母の日のように、ありがたい日々だわ。」と、ひとりだけ家にいて、そう思った。 

 

母の日ですね。  23:39 

いつもありがとう。

敬老の日辺りに、彼を連れてそちらに行く予定です。 お盆はいけたらひとりで行きます。 (^ ^)

 

うみたんからのメールが届いた。

たったこれだけのことだが、なにかプレゼントをいただくのと同じくらい嬉しい。 

他のふたりの子どもたちは、このようなことには、気を使ってくれない。 だから、この子の存在が嬉しい。

私には、子どもが三人いてくれるから、三人三様で、その違いを楽しんでいる。

 

母には、・・・  ごめんなさい。

私はうみたんのように、「おめでとう。」が言えません。 

とくに、認知症になってしまっているから。

ただね。 その一言を伝えたなら、お母さんはきっと記憶に留めてくれると信じています。 信じているけれど、言えない千鶴です。 

お母さん、ごめんなさい。



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いおたんの切った野菜

2012/05/13 13:40

 

もう1ヶ月ほど前のこと、私が台所にいると、いおたんがお料理を手伝いたいと言って来た。

だから、切りやすい大きさにした大根 ・人参 ・じゃがいもと果物ナイフとまな板を渡した。

自分が納得する大きさに切って・・・  細か過ぎたのだけれど、それを味噌汁にして、食べた。

「いおたんが切った大根、美味しい!」と言って食べ始めたが、その量は多すぎて・・・  最後は、犬たちにも食べてもらった。

 

2週間ぐらい過ぎても、私が切ったその3種類の野菜を見ると、自分が切った物と思って、「いおたんが切った大根、美味しい!」と言っては食べていた。 

時間的感覚もなく、量的な感覚もなく、さらに、切った野菜の形に対しても、関心がない年齢だと痛感させられた。

いったい、いつまで、「いおたんが切った大根、美味しい!」と言うのだろう?

そんな想いが芽生えた。

それからまた2週間ほどが過ぎた昨日の朝食時に・・・  この3種類の野菜と、その他に2品を加えた味噌汁を作って出すと、「いおたんが切った大根、美味しい!」と言ったのだ。

きっと、この “切った” という記憶が残っている間は、自分が切った物だと思い込み続けるのだろうか?

 

おままごとセットを使ったり、ビーズのおもちゃを食べ物に例えて、私たちに食べるように勧めてくれる。

私の子どもの頃は、おままごと遊びは、子どもとだけするものと思っていた。 だから、昼間の友だちと遊ぶ時間にしか出来なかったが、いおたんの場合は、いつもがおままごとの時間でもある。 ジャングルジムに登っているかと思っても、ゴーカイジャー遊びをしていると思っても、その次の瞬間は、おままごと遊びになって、ビーズを食べるように持ってくる。 

少し食べる真似をして、「美味しかったよ。」と言って、つ返す。 

それでも喜んで、いおたんなりの遊びは続く。

 

現在は、とう蕗の美味しい季節。 

近所の家の蕗をいただいて、皮をむいて、一口大に切って似ることにした。

もちろん、「いおたんも切りたい!」と主張するので、手伝ってもらうことにした。 

 

前回の3種類の野菜を切った時のようでは困るために、一応、言い聞かせて、私の指示通りに切ってもらうことにした。 輪切りではなく少し斜めにした形になるように、手を添えて切ってもらった。 

今回の人参は千切り。 スライスしたものを数枚重ねて、それに手を添えた。 最後は、「難しいから、ばあちゃんにやらせてね。」と言ってお願いをしながら・・・

一応、今回使う分が切り終わっても、大きな人参だったので残っていた。

いおたんは、すべてを切ってしまいたかったようだが、我慢させた。

 

蕗を料理して・・・  さすがに・・・ あく抜きをして煮ても、子どもが好む味ではないから食べようとしなかったが、自分の好きな・・・ 子供向けのお菓子(小さなラムネ)をいじりながら「ばあちゃん、良い匂いだよ。」と言いながら、私に近付けて来た。

私には嫌なミントの臭いだった。

「やめて! やめてよ!」と言っても続ける。 あまりにしつこく続けるので、「いおたんが、蕗を食べたら、ばあちゃんも我慢して食べるけど・・・ 」と言って、蕗の煮物を用意すると、我慢して食べる様子もなく、「美味しい!」と言って2切れ以上を食べた。

私は「やっぱり、ばあちゃんはこの味苦手だな。」と言って、ひとつ食べた。

 


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感覚の違い、状況の違い ニュース記事に関連したブログ

2012/05/11 13:37

 

たかが6万人? [一般人の戯言] から、【国際情勢分析】 世界で突出 中国の交通死者 年6万2000人  2012/05/11 1033 の記事を見た。

日本の「交通戦争」と言われた時代を思い出した。 と言っても、社会の関心の少なかった思春期だった頃のことだ。 社会の情勢が分からない私の記憶である。

 

昭和40年代に「交通戦争」と言われた時代があった。  

誰か自動車を持っていれば、その人は偉い人だとも思えた。 知っている人とか関係なく、地域を通る自動車には乗せてもらいたいとも思った。 乗せてくれない人は意地悪な人だとも思った。

だが、身近な人が、交通事故に遭遇するようになって、事故の恐ろしさを知り始めた。

その場で怪我をした人やむちうち症など、その場で分かるものについては、ある程度保障されたが、長引く治療やその場では分からない後遺症についてはかなり悩まされた。

 

医学が進んだ現在でも、交通事故で泣く人は後を絶たないのだけれど、当時は保険も確立していなかっただろうし・・・  

 

ちょうど、現在の中国のようだったのではないだろうか?

 

たしか昨年の暮れだったと思うが、中国でひとりの人を何台もの自動車が引いていたニュースがあった。 

なんと無関心で残忍な人たちのいる国だろうということで話題になった。 

だが、私は国や時代によって、人の命の重さの感覚は違うのだと思う。 

 

我が日本でも、昔は・・・  子どもの6人きょうだいが普通にいた頃には、間引きという・・  現在は、農作物でもあまり行われない方法で、産まれた子どもを殺していた時代があった。 そして、現在の日本でも、妊娠中絶は行われている。

 

佐久平駅近くまで通勤していた頃には、動物の死骸が道路に横たわっていた。 私の自動車も含めた自動車は、それを避けて通った。

ある日、北部消防署の近くを通ったとき、まだ引かれて間もない動物が、車の真ん前に横たわっていた。

対向車がなかったので、反対車線を通って、そこを通り過ぎてから反省した。

なぜ、停まってその死骸を道路端に寄せなかったのだろう? これからは、そうするように心掛けよう。  

そう思って、職場の使用済み使い捨て手袋の生野菜に触った物を捨てずに自動車に置くようにした。 

その後も、数回、道路に横たわっていたが、反対車線だったり、道端に近い所などで、死骸を寄せるタイミングがないまま、通勤は終わった。

人でも動物でも、関心を寄せなければ同じだと思う。

 

私は我が家の飼い犬を引いてしまったことがある。 庭でペットボトルを踏んでしまったと思って確認をすると、子犬だった。 内臓破裂で、その日の夕方には、死んでしまった。 病院には連れて行ったが、治療も出来ずに死んでしまった。 

動物でも衝突すれば、その感覚は分かると思う。 だが、たぶん、動物だと分かった時点で、ひき逃げを決意して、知らん顔をして行ってしまうのだろう。

 

“世界で突出 中国の交通死者 年6万2000人” という見出しを見たら、「なんとひどい国だろう!」と思ってしまいがちだけれど、中国の広さと人口を考えれば「たかが6万人?」でもあるし、自国の自殺者数の毎年間 3万人をもっと意識するべきだろう。

 

中国には、中国の良さがある。

戦後に残留孤児と言われる人々が、何人お世話になったのだろう。

自分たちの生活もままならないほど苦しいのに、他国の子どもを育ててくれたのだ。 我が日本人は、その恩返しはしなければいけないと思う。

交通事故という問題では、発展途上国と言える中国に対して、交通ルールや医療や保険などの知識を知らせることを積極的に行うべきだと思う。

 

人のことを非難するのではなく、支援の手を差し伸べる努力をするべきだと思う。

 

 

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関連ニュース

共食い ・共倒れ ニュース記事に関連したブログ

2012/05/11 11:19

 

「原発避難で自殺」遺族が東電提訴へ 2012/05/09 1217 の記事を読んで、悲しくなった。

 

東京電力福島第1原発事故は、東電の過失が大きいのかもしれないが、震災がなかったなら・・・

と思ってしまう。

避難生活のストレスで自殺した福島県川俣町山木屋の渡辺はま子さん=当時(58)=の遺族が東電に約7千万円の損害賠償を求めて福島地裁に提訴するとか。

 

渡辺さんは、原発事故で家族と離れての避難生活を強いられ、ストレスがたまって慢性的睡眠不足に陥り、うつ病になって自殺した。 原発事故被害のなかで、自殺は極めて過酷。悲劇を二度と起こしてはならないという遺族の思いから東電の法的、社会的責任を問うことなどを主張している遺族側の気持ちも分かる。 

 

だが、避難生活をしている人たち全員に補償をして、さらに損害賠償を支払ったなら、東電はどうなってしまうのだろう。

“共食い ・共倒れだ。” と思った。

 

政府は、東京電力の株式の過半数を取得して一時国有化する総合特別事業計画を承認したとか。

企業の不祥事を国が穴埋めをしていく。

今までもあったことで、良く吟味して決めてもらえば問題はない。

 

ただ、何の問題も発覚していなかった頃までの、発電所付近の人々は、優遇されていた。

例えば、我が村。

東京電力(株)の揚水式発電所である神流川発電所の上部調整池(奥三川湖)を作り始めた頃から村内が潤った。

金銭的な部分は別に考えて、16年に完成するまでは、工事作業員や関係者たちが村に住んでくれた。 

我が家の隣家には、下請け会社の夫婦が住んでくれて・・・  奥さんは、大型ダンプの運転手。 

ダンプの大きさは、タイヤの半径が私の身長よりある。 直径は、3m以上。 そのタイヤが、四か所にあるのだ。

そのように大きなダンプを運転して、バリバリ働いていることを知って、そのような人と親しくできることが嬉しかった。

その後目のクリっとした可愛い女の子を出産して、今のいおたんくらいになった頃、仕事がなくなったと引っ越して行ったが、その間、とても楽しいひとときを過ごした。

彼女たち家族がいてくれたことも嬉しかったが、すぐ近くには、東電住宅と村営住宅が7棟出来て、現在はすべて村営住宅となって、住人がいてくれる。

そのおかげで、我が地区は村で一番子どもが多い地域となっている。 保育園児も数人いるので、いおたんにとっても、保育園から帰宅後の良き遊び相手がいてくれる。

これは絶対にお金に換えることの出来ない、嬉しい出来事である。

 

このよう利点を、村内の我が地域以外に尋ねたら、別の事柄がたくさん出てくると思う。 

 

だが、やはり利点ばかりではない。 

どんなに自然環境に配慮したと言っても、山の中に湖が出来たのだ。 

そこに住んでいた動物たちの棲みかが、水の下となって・・・  そのこと以外の理由で増えた動物たちだけれど、それだけ棲みかが少なくなったのだから、住宅地に降りて来て、農作物を荒らしている。

 

一番多く発生しているのが鹿で、その駆除のために猟友会の人たちが県からの補助金を受け取りながら、奮闘している。

夫はその猟友会に属して、猟銃や罠を使って、朝とか、一定の時間を罠の見回りに行ったり、寒い冬の間は銃を持って仲間と鹿追いをしている。  

一番切ないのが、これらの鹿がほとんど、そのまま捨てられていることだ。 

最近になって鹿肉カレーとか、色々な料理で、観光客を呼ぶようになったが、それでも、それはホンのわずかな量である。

鹿肉は鹿肉なので、鶏肉や豚肉や牛肉の代わりにはならない。 50年前だったら、その他の肉を買わないで、鹿肉だけを食べ続けることが出来たかもしれないが・・・  鶏肉や豚肉のように頻繁に食卓に出す習慣がないために、少し出し続けると飽きてしまう。 山のような肉を毎日見ていると脅迫概念が生まれ、肉を見るのも嫌になって・・・ 来客が食べたいと言ったときに、食べるぐらいになってしまう。

 

何かの事を取り上げた場合、利点だけでもないし、不都合なことばかりでもない。

だけど、自分の不都合なことばかりを取り上げて、そのことを強く主張していたのでは、お互いが妥協することを忘れて、共食い ・共倒れとなってしまうのではないだろうか?

 

避難生活のストレスで自殺した人は、特にストレスに弱かったからということも言える。 

日本では、年間3万人以上の人が自殺をしている。 

その自殺者の中のひとりでもある。 

東電だけの責任にすることにも問題はあると思う。 

 

昨年11月、甥が自殺をした。  両親にはその理由が分かっているのかもしれないが、私たちには知らされていない。 少なくても、お葬式時点では、分からなかった。

その理由が分かったとしても、彼は戻って来ない。

誰かを責めたくても責める人がいない場合は、育て方とか・・・  結局誰かを責めるようになってしまうけれど、どうにもならない・・・  予想さえできなかった大きな震災があったように、どうにも逃れられないこともあるのだ。

 

ただ、どうにも治まらない怒りもある。  避難生活のストレスで自殺した人の遺族の気持ちだ。

 

このような例え話をしたら怒られるだろうか?

今年の1月26日に近所の猫が死んだ。 

これは最近になって、その家の人が話してくれたことで、彼女にとって忘れられない日となったのだろう。

「忘れもしない、」という言葉で、亡くなった日状況とその出来事を語ってくれた。

それを要約すると、その猫は元々野良猫だったのだが、時々餌をあげることでその家に棲みつくようになった。

子猫も生まれて、近所に子猫をはもらわれて行ったり、・・  彼女は餌をあげるだけでなく、その後の責任もとって、野良だった猫とその子どもを飼い続けて数年が過ぎたのだが、その猫が毒のついた肉を銜え家の近くにいたが、間もなく、死んでしまったというのだ。 

肉は毒が付いているとはっきり分かる色をしていた。

その肉は鹿肉で、我が家の冷凍庫には入りきれないために、自然冷蔵庫として、野外で凍らせて保管していたのだけれど、箱の中の肉を度々野良猫が食べてしまうので、困った夫が箱の近くに毒のついた肉を置いたらしい。

飼い猫は食べないことも確認して行ったらしいのだが、元野良猫だったために、その猫は、銜えてしまったのだ。

この猫は、その前の年にも、夫の掛けた罠に掛って大怪我をしている。

彼女は出来た人だから、猫の出来事と近所付き合いを悪くするようなことを同じレベルにしないけれど・・・・

私が小学生の低学年の頃に可愛がっていた猫が、近所の鶏を狙って何羽か殺してしまったらしい。 その家のご主人は、我が家の猫を殴り殺したとか。 

そのご主人が親に話したことで、私も知ったので、鶏の被害も猫の死骸も見ることはなかったけれど、その話を聴いて、数年間、ご主人を恨んだ。 “人間じゃない!!」とまで思った。

猫が毒肉を銜えただけで死んだことを聴いた日から、その小学生の頃のことを思い出し、心が痛んだ。

彼女の猫を可愛がって大切に育ていた様子は、度々聴いていたので、とても心が痛んだ。

だから、夫の話を聞いた後に、彼女に、自分が可愛がっていた猫を殺された話しをして、野良猫がなつくその特別な愛情、かけがえのない存在であったことを認めて・・・  でも、“人ではなく猫である。” という存在やら・・・  

死んだものは返って来ないことを認めることを、お互いに話した。

 

神戸児童殺傷事件の加害者少年の命に対する考え方を思い出す。 

と言っても、最近読み始めた本ではなく以前に知っていた内容で、ゴキブリの命と人の命の比較を母親に尋ねた頃の彼は、ゴキブリの命も尊いものと捉えていたらしいことを。

そんなことを考えると、彼はアスペルガー症候群など発達障害があったのではないかと思う。 という考えは、彼と深く関わった専門家たちの意見を全く知らない私の意見である。

 

アスペルガー症候群と敬意ある臨床心理士に言われた私は、彼の気持ちがとてもよく分かる。 そして、一般の人の考え方も。

時には、ゴキブリの命も人の命と同じレベルまで高め、時には、人の命をゴキブリ以下に低くして、命の尊さを考える。 すべての命は、同じように尊いのだけれど、生命の誕生の仕組みを考えた場合・・・  大きな魚は、微生物や小さな魚などのたくさんの生き物を食べて生きなければならない。  生まれる数や周期が違う。

ここに相対性理論が当てはまるのではないかと思うが、私はアインシュタインの相対性理論については、その書物を読んではいないし理解していない。  色々な人の話や書物から、想像するだけである。

 

人の命は何よりも尊いのだけれど、その命を守るためには、時として、ゴキブリのような厄介ものでしかないものの命をも大切にしなければならないのだ。

 

共食い ・共倒れしないために、嫌な思いをしたことだけを取り上げるのではなく、良い思い出があったことを思い出してほしい。

 

私は良い思い出を、心の支えにして、これからを生きていこうと南相木村役場庁舎勤務1年目の2月に決めた。

感謝する気持ちを何よりも優先することを、心に決めて、未来を見詰めた。

その後、嫌な思い出は、私の心の醜さから来ていると痛感した。 

だから、自分の心の浄化のみを心掛けて、現在に至っている。

 

そして、家族と過ごす中で、醜い心が常に芽を出している。  

家族といると、常に心が裸なので、3歳児レベルの言い争いになる。 

我が家は常に、3歳児のいおたん中心に、口論が絶えない。 

だが、これが本当の幸せなんだろうな~! とも思う。 

 

“三つ子の魂、百まで” “似たもの夫婦” そんな言葉が、頭をよぎる。 

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依存症 ニュース記事に関連したブログ

2012/05/10 11:50

 

近年、災害も事故も多いと思うのは、私だけなんだろうか?

竜巻のニュースを思い出しながら、そんなことを考え始めた。 

東日本大震災が起こった時に、たしか東京都知事が「罰が当たった。」と言ったことで問題になったと聴いたが・・・

天罰が、地球のすべての人に・・・

 

2000年頃、ノストラダムスの大予言で人類滅亡の時が来るとされたが、滅亡はなかった。 

さらに、2012年にやはり滅亡の時が来るという説があるらしい。

テレビを見ているとマヤ文明の生存者(マヤ人)が、2012年に終わりの時が2012年12月に来ると言った。 この終わりとは、人類が滅亡するのではなく、人々の意識が変わることを意味しているらしい。

 

エホバの証人では、間もなく “終わりの日” が来ると、たしか10年ほど前の冊子にそのように書かれていた。

私はこの “終わりの日” は、マヤ人たちの考え方と同じように意識を変えるという意味に捉えていた。 

そう捉えていたことを証明するために、エホバの証人について書いた “宗教と私 アダムとイブ 2010/11/26 0740 と題した私のブログなどを見直したが、書いたところが分からなかった。

 

先日、60万アクセスを超えたことを書いたが、アクセスして読んでくれた人には、改めて感謝したい。

私の文章は、本当に読みにくい。 

普通の人の文章が、1・2・3・4・5・・・・・ と行くとしたら、私のは、1・2・4・6・・・・ だったらまだ良いのだけど、1・4・10・15・3・… のような、次の話題が予想できない感じだ。 

自分の書いたものを読み返してそう思うのだから、この上なく情けない。 

ひとつ言い訳をすると、人の考えは、順番通りには展開しない。 それを順番通りに並べたら、見落とすこと書き落とすこともある。

だったのだけれど・・・  どっちが良いのだろう?

 

話は元に戻して・・・

“天罰は、私たちの意識を一気変えるためにある。” と、私には思えた。

マヤ文明の占いでは、2012年12月にその日が来るという。  

その頃までに、私たちが意識を変えなければならないような出来事がまだ起こるのだろうか?

 

あれ?! そうではなくて、“依存症” という題名だった。 

これを書こうと思ったのが、たぶん、7日のことなので、依存症という言葉がどのようなことから私の脳裏に浮かんだのか思い出せないのだけれど、依存症というと病気のように感じるけれど、私たちはかなり色々なモノに依存して生きていると思う。

 

そのひとつが電気で・・・

福島原発事故があってから、私たちは電力不足を気にするようになった。 

原発発電がひとつも稼働しなくなって、今度の夏はかなり深刻になると思う。 

だが、この電気。 

私の中の記憶では、・・・  私が生まれた昭和30年頃は、日本国内に電気が使われていない地域が多々あったと思う。 なぜなら、私の幼い頃は、明りを取るためとラジオだけしか電気が使われていなかった。 

その明りさえ、陽の光でうっすらと家の中が見える時には、電気はつけてはいけないと注意されたものだ。

小学校就学前までは、 つまり、36年頃の私の育った地域では、新築の家でさえ明りと、コンセントがひとつ部屋にあれば良いような家だった。

 

たった50年で、私たちは、電気に依存して生きるようになった。

平成8年頃建てられた我が家は、予想して使うだろう位置にコンセントをつけた。 居間は、部屋の4隅に付けたがそれでも不便を感じている。 

電話(村内電話) ・ストーブ ・こたつor扇風機 ・テレビ ・掃除機 ・プリンター ・パソコン ・換気扇 ・時計 ・村内無線機 といった物がある。 

パソコンは想定外のひとつだ。

 

50年前のような生活に戻れば良いのだ。 それでも生きていくことは出来るのだから。

だが、このように考えたのは、畑で草取りをしていた時だった。

“依存症” という病名を持った人たちのことを、多少でも非難した人は反省すべきだと思う。

家の中に入り、テレビを点けると、如何に、社会が電気に依存しているかを見せつけられた。

 

そこに泉があるように、・・・  川に水が流れているように・・・  大昔の人たちが、そのような所に家を建てたように、電気のある所に家を建てて、そして、当たり前のように・・・  オール電化の家もあって・・・   電気がなければ、生命の危機状態になる人たちもいて・・・  

私たちは、水や空気と同じように、電気を必要としている。

その他にも無くてはならないモノがあって・・・  それはなんだろう? 一つひとつ取り上げたら・・・  限りなく出てくるのではないだろうか?

 

たくさんのモノに依存をして、生きている。 にも拘らず、それらのモノを大切にしていない。 

あることが当然のこととして考え、それらがあることに感謝をしていない。 

 

私たちが、色々なモノに依存していることに気がついて、感謝をする気持ちを持つようになったとき、今までの社会は崩壊して、新しい社会、住みやすい社会が訪れるのだと思う。

だが、見た目は、何も変わっていないと思う。 

 

テレビでは、数年前と同じようなことを報道しているだろうし、そのことをやっぱり数年前と同じように見て持論を述べる人がいて・・・・  

もしも違うところがあるとするなら、どこか希望に満ちている人たちが多いということだろうか?

 

 

 

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私は神と対等の存在

2012/05/06 23:44

 

現在、“神との対話” という本を読み進めている。 

読み始めたのは3月だったが、あまり熱心に読み進めていないために、やっと、104ページを読み終えたところだ。

そこに私たちは “神との対等の存在” であるという内容が書かれている。

私が “私たち” としたのは、本の中では「あなた」として、読者に対して書かれているから。

 

自分に対する考え方を変えた場合、“ほとんどの―人間に奇異の目で見られるだろう。 狂人呼ばれ、冒涜者と呼ばれるだろう。 やがては迫害されるだろう。” となると書かれていて、私は迫害された。

私の単純な真実、単純な真実のままの人生は、一般の人々、つまり、俗世界の人々が考案するどんなものよりも美しく、心地よく、安らかで、愛に満ちているから。

 

私は神と対等の存在であるけれど、別の視点から見ると、どの位置に属しているのだろう?

大島信三さんのブログの 社長になれる条件  2012/05/05 1413 のコメント欄に、mochizuki さん(05/06 0459)がとても良いことを書いてくれている。

何を勉強すべきかと云うと、『事業の景色』=『事業の依処と本体に拘る諸法実相』、即ち、「事業の依処と本体に拘る諸事・諸物・諸象を、現代・過去実相・未来に亘る是の実相の正邪・善悪・利害・美欠の価値等級について、超特級(仏陀級)・特級(菩薩級)・1級(縁覚級)・2級(声聞級)・3級(天上級)・4級(人間級)・5級(修羅級)・6級(畜生級)・7級(餓鬼級)・8級(畜生級)から成る十界の如きに識別し、是らの間に様相・性質・体勢・力量・作用・原因・結縁・成果・応報・本末究竟等の如き概念の条理を審らかに認識して理解し、解説・説明・説得するのに必要な事柄」

 

の中の、「超特級(仏陀級)・特級(菩薩級)・1級(縁覚級)・2級(声聞級)・3級(天上級)・4級(人間級)・5級(修羅級)・6級(畜生級)・7級(餓鬼級)・8級(畜生級)から成る十界」の私の位置は、たぶん、「2級(声聞級)・3級(天上級)」の辺りではないかと思う。

 “神との対話” の中にも書かれているが、「だいそれた考え」とも言える。

 

現在、うかぽんが読み始めている本「少年A この子を産んで」神戸児童殺傷事件の加害者である酒鬼薔薇の両親の手記が二階のトイレに置いてあって、母親の手記の一部を読んだり、事件以降考えたことを思い出すと、“少年A” だって、神と対等の存在だと考えている。

私が懲戒免職となったことと彼が人を殺してしまったことは、“ほとんどの―人間に奇異の目で見られるだろう。 狂人呼ばれ、冒涜者と呼ばれるだろう。 やがては迫害されるだろう。” という意味で同じである。

それは政治家小沢一郎氏が行ったこととも同じだと言える。

小沢氏は、無罪という判定が出たけれど、その決断は人が決めたことである。 

 

私が懲戒免職になる前に、いじめ問題で自殺をした少年がいた。 

いじめた子どもたちは、自分たちに都合が良く少年に不都合なようなグループのルールを変えていった。  一応、少年の合意に基づいて。 だが、多数決という、少年の意思を無視できる方法で・・・  。

 

人の作った法は、逃げ道もある。 法についてしっかり学んでいる人たちの協力によって、小沢氏は逃げ切ったのである。 

彼の人生が、「単純な真実、単純な真実のままの人生」かは、私には分からない。 

 

ただ私に分かるのは、彼もまた、神と対等の存在ということだ。

そして、その他のすべての人たちも。

 

“少年A” の母親は、「これからは、息子の行ったことを、償うために生きていく。」と言っている。  私たちすべての人も、“ほとんどの―人間に奇異の目で見られるだろう。 狂人呼ばれ、冒涜者と呼ばれるだろう。 やがては迫害されるだろう。” ことに対して、償う気持ちで生き続ける必要がある。

 

私たちは、“神と対等の存在” であるがゆえに、償うような気持で、これからを生き続けるのである。

人や動物 ・生き物を傷付けないように心掛け、でも、生きるために必要な食糧や自分の身を守るために、生き物を殺さなければならないことを、心に留めて置かなければならない。

 

 

明朝からは、105ページを読み進めたい。

 

 

 

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