「原発避難で自殺」遺族が東電提訴へ 2012/05/09 12:17 の記事を読んで、悲しくなった。
東京電力福島第1原発事故は、東電の過失が大きいのかもしれないが、震災がなかったなら・・・
と思ってしまう。
避難生活のストレスで自殺した福島県川俣町山木屋の渡辺はま子さん=当時(58)=の遺族が東電に約7千万円の損害賠償を求めて福島地裁に提訴するとか。
渡辺さんは、原発事故で家族と離れての避難生活を強いられ、ストレスがたまって慢性的睡眠不足に陥り、うつ病になって自殺した。 原発事故被害のなかで、自殺は極めて過酷。悲劇を二度と起こしてはならないという遺族の思いから東電の法的、社会的責任を問うことなどを主張している遺族側の気持ちも分かる。
だが、避難生活をしている人たち全員に補償をして、さらに損害賠償を支払ったなら、東電はどうなってしまうのだろう。
“共食い ・共倒れだ。” と思った。
政府は、東京電力の株式の過半数を取得して一時国有化する総合特別事業計画を承認したとか。
企業の不祥事を国が穴埋めをしていく。
今までもあったことで、良く吟味して決めてもらえば問題はない。
ただ、何の問題も発覚していなかった頃までの、発電所付近の人々は、優遇されていた。
例えば、我が村。
東京電力(株)の揚水式発電所である神流川発電所の上部調整池(奥三川湖)を作り始めた頃から村内が潤った。
金銭的な部分は別に考えて、16年に完成するまでは、工事作業員や関係者たちが村に住んでくれた。
我が家の隣家には、下請け会社の夫婦が住んでくれて・・・ 奥さんは、大型ダンプの運転手。
ダンプの大きさは、タイヤの半径が私の身長よりある。 直径は、3m以上。 そのタイヤが、四か所にあるのだ。
そのように大きなダンプを運転して、バリバリ働いていることを知って、そのような人と親しくできることが嬉しかった。
その後目のクリっとした可愛い女の子を出産して、今のいおたんくらいになった頃、仕事がなくなったと引っ越して行ったが、その間、とても楽しいひとときを過ごした。
彼女たち家族がいてくれたことも嬉しかったが、すぐ近くには、東電住宅と村営住宅が7棟出来て、現在はすべて村営住宅となって、住人がいてくれる。
そのおかげで、我が地区は村で一番子どもが多い地域となっている。 保育園児も数人いるので、いおたんにとっても、保育園から帰宅後の良き遊び相手がいてくれる。
これは絶対にお金に換えることの出来ない、嬉しい出来事である。
このよう利点を、村内の我が地域以外に尋ねたら、別の事柄がたくさん出てくると思う。
だが、やはり利点ばかりではない。
どんなに自然環境に配慮したと言っても、山の中に湖が出来たのだ。
そこに住んでいた動物たちの棲みかが、水の下となって・・・ そのこと以外の理由で増えた動物たちだけれど、それだけ棲みかが少なくなったのだから、住宅地に降りて来て、農作物を荒らしている。
一番多く発生しているのが鹿で、その駆除のために猟友会の人たちが県からの補助金を受け取りながら、奮闘している。
夫はその猟友会に属して、猟銃や罠を使って、朝とか、一定の時間を罠の見回りに行ったり、寒い冬の間は銃を持って仲間と鹿追いをしている。
一番切ないのが、これらの鹿がほとんど、そのまま捨てられていることだ。
最近になって鹿肉カレーとか、色々な料理で、観光客を呼ぶようになったが、それでも、それはホンのわずかな量である。
鹿肉は鹿肉なので、鶏肉や豚肉や牛肉の代わりにはならない。 50年前だったら、その他の肉を買わないで、鹿肉だけを食べ続けることが出来たかもしれないが・・・ 鶏肉や豚肉のように頻繁に食卓に出す習慣がないために、少し出し続けると飽きてしまう。 山のような肉を毎日見ていると脅迫概念が生まれ、肉を見るのも嫌になって・・・ 来客が食べたいと言ったときに、食べるぐらいになってしまう。
何かの事を取り上げた場合、利点だけでもないし、不都合なことばかりでもない。
だけど、自分の不都合なことばかりを取り上げて、そのことを強く主張していたのでは、お互いが妥協することを忘れて、共食い ・共倒れとなってしまうのではないだろうか?
避難生活のストレスで自殺した人は、特にストレスに弱かったからということも言える。
日本では、年間3万人以上の人が自殺をしている。
その自殺者の中のひとりでもある。
東電だけの責任にすることにも問題はあると思う。
昨年11月、甥が自殺をした。 両親にはその理由が分かっているのかもしれないが、私たちには知らされていない。 少なくても、お葬式時点では、分からなかった。
その理由が分かったとしても、彼は戻って来ない。
誰かを責めたくても責める人がいない場合は、育て方とか・・・ 結局誰かを責めるようになってしまうけれど、どうにもならない・・・ 予想さえできなかった大きな震災があったように、どうにも逃れられないこともあるのだ。
ただ、どうにも治まらない怒りもある。 避難生活のストレスで自殺した人の遺族の気持ちだ。
このような例え話をしたら怒られるだろうか?
今年の1月26日に近所の猫が死んだ。
これは最近になって、その家の人が話してくれたことで、彼女にとって忘れられない日となったのだろう。
「忘れもしない、」という言葉で、亡くなった日状況とその出来事を語ってくれた。
それを要約すると、その猫は元々野良猫だったのだが、時々餌をあげることでその家に棲みつくようになった。
子猫も生まれて、近所に子猫をはもらわれて行ったり、・・ 彼女は餌をあげるだけでなく、その後の責任もとって、野良だった猫とその子どもを飼い続けて数年が過ぎたのだが、その猫が毒のついた肉を銜え家の近くにいたが、間もなく、死んでしまったというのだ。
肉は毒が付いているとはっきり分かる色をしていた。
その肉は鹿肉で、我が家の冷凍庫には入りきれないために、自然冷蔵庫として、野外で凍らせて保管していたのだけれど、箱の中の肉を度々野良猫が食べてしまうので、困った夫が箱の近くに毒のついた肉を置いたらしい。
飼い猫は食べないことも確認して行ったらしいのだが、元野良猫だったために、その猫は、銜えてしまったのだ。
この猫は、その前の年にも、夫の掛けた罠に掛って大怪我をしている。
彼女は出来た人だから、猫の出来事と近所付き合いを悪くするようなことを同じレベルにしないけれど・・・・
私が小学生の低学年の頃に可愛がっていた猫が、近所の鶏を狙って何羽か殺してしまったらしい。 その家のご主人は、我が家の猫を殴り殺したとか。
そのご主人が親に話したことで、私も知ったので、鶏の被害も猫の死骸も見ることはなかったけれど、その話を聴いて、数年間、ご主人を恨んだ。 “人間じゃない!!」とまで思った。
猫が毒肉を銜えただけで死んだことを聴いた日から、その小学生の頃のことを思い出し、心が痛んだ。
彼女の猫を可愛がって大切に育ていた様子は、度々聴いていたので、とても心が痛んだ。
だから、夫の話を聞いた後に、彼女に、自分が可愛がっていた猫を殺された話しをして、野良猫がなつくその特別な愛情、かけがえのない存在であったことを認めて・・・ でも、“人ではなく猫である。” という存在やら・・・
死んだものは返って来ないことを認めることを、お互いに話した。
神戸児童殺傷事件の加害者少年の命に対する考え方を思い出す。
と言っても、最近読み始めた本ではなく以前に知っていた内容で、ゴキブリの命と人の命の比較を母親に尋ねた頃の彼は、ゴキブリの命も尊いものと捉えていたらしいことを。
そんなことを考えると、彼はアスペルガー症候群など発達障害があったのではないかと思う。 という考えは、彼と深く関わった専門家たちの意見を全く知らない私の意見である。
アスペルガー症候群と敬意ある臨床心理士に言われた私は、彼の気持ちがとてもよく分かる。 そして、一般の人の考え方も。
時には、ゴキブリの命も人の命と同じレベルまで高め、時には、人の命をゴキブリ以下に低くして、命の尊さを考える。 すべての命は、同じように尊いのだけれど、生命の誕生の仕組みを考えた場合・・・ 大きな魚は、微生物や小さな魚などのたくさんの生き物を食べて生きなければならない。 生まれる数や周期が違う。
ここに相対性理論が当てはまるのではないかと思うが、私はアインシュタインの相対性理論については、その書物を読んではいないし理解していない。 色々な人の話や書物から、想像するだけである。
人の命は何よりも尊いのだけれど、その命を守るためには、時として、ゴキブリのような厄介ものでしかないものの命をも大切にしなければならないのだ。
共食い ・共倒れしないために、嫌な思いをしたことだけを取り上げるのではなく、良い思い出があったことを思い出してほしい。
私は良い思い出を、心の支えにして、これからを生きていこうと南相木村役場庁舎勤務1年目の2月に決めた。
感謝する気持ちを何よりも優先することを、心に決めて、未来を見詰めた。
その後、嫌な思い出は、私の心の醜さから来ていると痛感した。
だから、自分の心の浄化のみを心掛けて、現在に至っている。
そして、家族と過ごす中で、醜い心が常に芽を出している。
家族といると、常に心が裸なので、3歳児レベルの言い争いになる。
我が家は常に、3歳児のいおたん中心に、口論が絶えない。
だが、これが本当の幸せなんだろうな~! とも思う。
“三つ子の魂、百まで” “似たもの夫婦” そんな言葉が、頭をよぎる。
by turusenba
問題は、なに?